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青い目の人形の歴史を探る!童謡に隠されたナゾと友情の証とは?

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青い目の人形

出展:札幌市平和バーチャル資料館

青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド♪

これは作詞:野口雨情、作曲:本居長世の「青い目の人形」という童謡の歌いだしですね。

1927年(昭和2年)春、アメリカから1万2千体をこえる「青い目の人形」が日本に届けられました。

これは、日米両国の友好・親善を願う人々によって実現され、青い目の人形は日本全国の幼稚園や小学校に贈られました。

これによって、日本は社会的に大きな盛り上がりを見せたらしいのですが・・・・

今その人形たちはどこへ?童謡「青い目の人形」との関連はあるのでしょうか?

 

青い目の人形が贈られたのは友情?それとも?

アメリカから「青い目の人形」が届けられる少し前1924年、アメリカは移民政策を取りました。

「排日移民法」と呼ばれるその法は、移民の出身国比率を調整するため、アメリカ在住している移民の出身国に対して、新規の移民を2%しか受け入れないとする法律でした。

たった2%の受け入れとなってしまったことで、実質日本から移民としてアメリカに渡ることが不可能になり、排日移民法と呼ばれるようになりました。

また同時期、日本が中国へ進出。それを好ましく思わなかったアメリカと、緊張感を伴う関係に陥ってしまったのです。

そのような関係の中、緊張関係を打開しようとアメリカ側から贈られたのが、青い目の人形たちでした。

 

パスポートを持って入国したフレンドシップ・ドール

アメリカは、日本のひな祭りの風習を知り、昭和2年3月に合わせて1万2千体を超えるフレンドシップドールと名づけられた「青い目の人形」を送りました。

それぞれ名前がつけられパスポートを携えた人形たちは、日本全国各地の幼稚園、小学校に贈られました。

 

日本から返礼された58体の「市松人形」

市松人形

 

昭和2年の暮れ、日本側から58体の市松人形がアメリカに答礼人形として贈られました。

1万2千体の青い目の人形に対して、たったの58体?とお思いでしょ?でも、それには理由があるんです。

市松人形を制作するには、当時350円必要でした。当時の350円は、現在の280万円相当なんです。

その資金は全国の子どもたちが1銭ずつ募金、残りは皇后が1000円提供して集められました。

市松人形は絹の着物をまとい、ミニチュアの茶道具や楽器など、日本文化を象徴する小物と一緒にアメリカへ贈られました。

アメリカに渡った人形たちは全米を周遊した後、博物館などに飾られています。

 

「青い目の人形」と「市松人形」人形たちのその後

1939年(昭和14年)第二次世界大戦が勃発します。

日本とアメリカは敵国。敵国同士に贈られた人形たちは、どうなったのでしょうか?

日本では「青い目の人形」は敵国のものだとして処分しようとしました。

一部の人々によって守られた人形は334体。現在は各地の小学校や博物館で展示されています。

一方アメリカに残る市松人形は47体。多くの答礼人形は、修復のため日本に里帰りを果たしています。

ここでも、日本とアメリカの文化や気質の差がうかがえますね。

 

童謡「青い目の人形」とフレンドシップ・ドールの関係は?

童謡「青い目の人形」は、アメリカからフレンドシップ・ドールが贈られる6年前の、1921年(大正10年)に発表された歌です。

この歌は、野口雨情がキューピー人形から発想されたものとも、その頃出回り始めた「青い目のセルロイド人形」を語呂良く歌詞に乗せたとも言われています。

アメリカから「青い目の人形」が贈られる前の歌、フレンドシップ・ドールとは全く関係がないように思われますよね?

「青い目の人形」

青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時涙を一杯浮かべてた
私は言葉が分からない 迷子になったら何としょう
優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ

でも、実はこの歌、日本だけでなくアメリカでも歌われていたんです。

 

「青い目の人形」がアメリカでも歌われたワケ

童謡「青い目の人形」が発表された2年後、1923年(大正12年)関東大震災がおこりました。

世界中から募金が集まったのですが、中でもアメリカから一番多く募金が集まりました。

アメリカで募金を呼びかけるときに歌われたのが、この「青い目の人形」だったのです。

 

日本に25年滞在していた親日家の宣教師ギューリック博士は、日米関係を修復しようと奔走していました。

童謡「青い目の人形」を聞いた博士は、この歌を使って募金を集め、さらには本物の「青い目の人形」フレンドシップ・ドールを日本側へ贈ることを考えました。

子どものころから友好の心を持つと、大人になってもそれが実現できると博士は考えていたのです。

博士の構想は実現、1927年(昭和2年)3月、アメリカから「青い目の人形」たちは日本へやってきました。これが、童謡「青い目の人形」とアメリカから贈られたフレンドシップ・ドールとの本当の関係です。

 

「青い目の人形」はセルロイドではなかった

アメリカから贈られたフレンドシップ・ドール「青い目の人形」はビスクドールという、2度素焼きした人形でした。

野口雨情の歌詞にある、セルロイド製の人形ではなかったのです。

しかし、童謡「青い目の人形」とフレンドシップ・ドール「青い目の人形」、関係がないように思われた両者は、実は繋がっていました。

アメリカから贈られた人形にヒントを得て作られた童謡と思われがちですが、本当は逆。童謡「青い目の人形」にヒントを得て人形が贈られたのが、本当の歴史のようです。

 

青い目の人形たちが日本へやってきた時に歓迎の歌が歌われました。

それは、野口雨情の青い目の人形ではなく、童謡「ふるさと」の作者として知られる高野辰之のこんな歌でした。

「海のあちらの友達の まことの心こもってる かはいいかはいい人形さん あなたをみんなで迎へます」

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